相変わらず、ガッコの授業はかったるい。この声、子守歌に聞こえてくるぜ。黒板の文字がぼやけて見える。教壇の一番前ってのは結構いいもんだと最近思い始めていた。ここはここでセンコーの死角に入るってことに最近気がついた。
「市乃、飯食いに行こうぜ」
小泉が二時間目の休み時間に言って来た。朝飯食ってないから、丁度良かった。
俺の名前は田中市乃。他のヤツらは簡単にイッチと呼ぶけれど小泉だけは市乃と呼ぶ。マブダチの小泉とは一年の時から一緒で、なんだかんだと連んでいる。
「うぃっす」
ポケットの小銭をジャラジャラいわせて俺は立ち上がった。二時間目から俺らがフケて、三時間目からいなかったからって特にどうこう騒がないのがこのガッコの良いところだ。薄汚れた教室のあちこちでは自前の弁当を平らげている奴らもちらほら見えていた。
都内の外れにある俺らの男子校は、決して進学校ではない。
「どした、小泉元気なくねぇ?」
小泉はちょっとしたインテリっぽく見える。縁なしの眼鏡なんかかけて、それが伊達なんだと俺は知っている。本人は乱視がどうのって言っているけれど、体育の時、眼鏡なしで高飛びを170以上飛べるヤツの言う事なんて信じられねぇってことだ。
今日の小泉はいつもにも増して顔色が悪かった。
「女か」
ぼそっと俺は吐いた。小泉が年上の女とつき合っているのは以前本人の口から聞いた事があった。しかも人妻だと言う。本心、ムカツクほど羨ましかったけど、小泉は真剣らしかった。こいつがこういう表情をしているときは必ずといっていいほどそれが原因だと言えた。
「まあ、な」
「俺に聞いて欲しい?」
ちょっと意地悪く小泉に言った。女日照りが何年も続いている俺にそんな贅沢な悩みなんて聞かせる方が悪いっての。
俺は、なんの助言もできねぇ。ただ、黙って小泉の言うことを聞いてやるだけだ。
小泉はそんな俺に向かって、にやっと笑っただけだった。
ま、早めの昼飯でも食いながら、ヤツの話でも聞いてやろうと教室のドアに手をかけた時、すれ違い様に他クラスの奴らが数人入って来た。別に他のクラスとの交流が無い訳でも、ことさら俺らのクラスが団結心が強いという訳でもなかったから、そいつらが入ってきても文句など無い訳ではあるのだが。
先頭切って入って来たのは面倒くせぇ奴だった。俺とはガクチュウからの顔見知りだったが何かとキレやすく、自分が一番強いとか思いこんでいる男だった。一瞬視線が絡むが、そいつ、片桐はチッ軽く舌打ちをしただけで俺の横を通り過ぎようとしていた。はっきり言って、おめーにそんな仕打ちされる義理はねーんだよって、思わず体とコブシが前へ出たが、小泉に押しとどめられてしまった。
ま、こんなチンケなヤツに関わって飯の時間が無くなることの方が勿体ねぇっちゃそうなんだ。だが、あいつは入ってくるなり葵を呼び出しやがった。
「松尾って奴はどいつだ?」
あーあ、面倒くせぇのに目ぇつけられたな。
そう思ったが、別にどうという訳でもないとそのまま教室の外へ出ようとしたが、肘で小泉が俺の脇腹をつつく。
「……んだよ」
「いいのか?」
ギリこと片桐は、自分より弱い奴にしか吹っかけて来ないようなしょぼくれた奴だったから、どこからか金髪葵の事を聞いてやって来たんだろうと予想はついた。先週転校してきた葵は明らかに生っちろい男だったから。
「面倒くせぇなぁ」
小声で俺は小泉に言うと舌打ちをした。
「俺」
以前の俺の席に座り、相変わらずぼーっとした目つきの葵はギリに向かって手を挙げていた。
「なんか、用っすか?」
「用があるからわざわざ出向いたんだろが、転校生くんよ」
ざわついていた教室内にちょっとした緊迫感が張りつめた。
外に出ろという合図を、片桐の後ろにいた奴が葵に向かって指示した。もうこういう風になったら成り行きを見るしかないだろうと俺は思う。
葵がどこまでやるのか見てみたかったのが本心だったかもしれない。脇腹をまた突いてくる小泉に目だけで合図を送る。
飯食う時間が無くなったかもな、どうするよ小泉。
小泉は鼻筋へと人差し指をあて、ちょっと考える風をした。
「ま、話なんていつでも出来るし、葵ちゃんが心配だな」
と、余裕ぶっこいて言った。まあ、お前にそんな余裕があんなら、俺は別にどっちでもいいんだけどよ。
廊下に近い壁際に背を凭れ、俺と小泉は成り行きを観察する事にした。
椅子に座っている葵の表情はいつもと変わらず。少しは緊張とかしねぇのか?あいつ。それとももしかしたら、肝っ玉座った奴なのかも知れない。そう思った途端、なんだかワクワクしてきた。
あれから(転校初日の、思い出すのも恥ずかしいあの日から)葵は毎日とは言わなくとも、ほぼ日参してくるようになっていた。日参って言ってもまだ一週間にしかならないが、ほとんど毎日のようにやってきていた。
あの日の次の日にやって来た時は俺の方がビビっていたけれど、相変わらずの葵は飄々といた顔して当然のようにやってきた。
大抵はコンビニで買い物したついでに寄っていくといった感じだった。マンガを読んだりテレビを見たりして数時間を過ごしては帰っていった。たまに一緒にビデオを見たり、他愛ない会話とかしたりして、スナック菓子を頬ばりながら笑ったりしているうちに、初日の出来事の事は俺の記憶から薄れていくみたいだった。忘れたい記憶なんてーのは、どんどん薄れていく自分の頭の構造をうれしく思ったりしたもんだ。
俺がバイトでいないときは部屋の前にコンビニの袋が置いてあったりすることも暫しあった。
そんな付き合いが始まって、かれこれ一週間だったが、葵は五月蠅くない奴で、いてもいなくても気にならない存在になっていった。教室では必要以外俺んところ寄ってこないし、話しがある時は家に来たときに話す。そんな感じだった。
そんな矢先のこの出来事は、俺にとって今日の話題の一つ程度の問題に過ぎなかった。何かあったらそん時ギリに一発かませば話は済むからな。ガク中ん時、一度ギリとガチンコやったけど、そん時は俺の圧勝。ま、体格の差云々より、気合いだな。それ以来あいつは近寄っては来ない。
そのくせ、さっきの舌打ちはなんなんだってことだよ。
ドンと葵の机を片桐が蹴飛ばし、葵はむっとした顔をした。その表情に片桐がつけ込んで葵のツンツン尖った金髪を鷲掴みに掴んだ。
「挨拶、させてやるから表出な」
俺らの教室は校舎の一階。すぐ隣は体育館という、絶好のロケーションだった。
ガクランをバサリと脱ぎ去る葵は結構やる気満々に見えた。金髪からのぞくその目つきはいつもの葵の目つきとはちょっと違う。さっきまでの眠たそうな瞼が今は二重になっている。
薄い身体を丸めるような仕草を見せながら、葵が俺の横を通り過ぎるとき、ニヤリと笑って行った。
片桐を先頭に数人の取り巻き(情けねぇ感じの取り巻きだ)が葵を囲んで体育館の裏手へと誘う。一昔の少年漫画じゃあるまいし、なんでそこに拘るかねって。
面白半分の連中も次の授業のベルが鳴っているにも関わらず、ぞろぞろと葵たちの後をついていく。ギャラリーが増えてるってのは結構いいもんだ。
「で、なんの用っすか」
長めの前髪からのぞく葵の目だけが見える。相変わらずの葵のかったるい声が片桐の感に障ったのか片桐の薄ら笑いがちょっと引きつり怒りが加わったようだった。
「その金髪、目立つんだよ」
全くの言いがかりとでもいう言いぐさの片桐の声は甲高く青く高い空へと消えていった。なにも髪を染めているのは葵だけじゃない。
いきなりビシュっという音を立てて片桐のパンチが(ほんとパンチって感じの)葵の頬にヒットした。
避けるつもりがなかったのか、そんな暇も無かったのか、葵はそのまま突っ立った状態でまともにくらった。俺はユラリとよろけるその後ろ姿を見ていた。
頬に当たったと思ったパンチは葵の唇を切り、その口元からは赤い血が滴っている。葵もその口を拭おうともせずに、まるで片桐の力量を見るとでもいう様子でにやりと笑っている。
なんとも気持ちの悪い男だと思ったね。
「大丈夫かねぇ、葵ちゃん」
となりで小泉が心配そうな口調で見守っていた。
「なんで助けてやんないのよ」
「あんで、俺が?」
「ギリとは昔馴染みっしょ?市乃」
「葵が俺に助けてくれって言ってもいないのに手ぇ出すのは反則っしょ」
「ま~なぁ~」
どう出るのかと次の瞬間、また手を出したのは片桐の方からだった。それを避けた葵はポケットに手を突っ込んだまんまの形で片桐の腹に膝蹴りを喰らわした。
俺は「よっしゃ!」と心で叫んだが、葵の反撃はそれだけで収まらず、片桐の肩に手を置いたかと思うと左足を大きく弧を書く様に大きくゆっくりと振り上げ、片桐の右耳にクリーンヒットさせた。お見事と拍手したくなるほどの綺麗な当たりだった。
続けざまに葵は助走を付けると片桐目がけて走り出し、片桐の肩まで軽く駆け上がり、バック転の如く空中で一回転すると地に着く頃には片桐は地べたに突っ伏していた。
あまりにも見事な一瞬だった。回りの見物者から今度こそ、拍手が沸き上がっていた。
この身長175くらいで痩せた身体の葵の何処にそんな業を秘めていたのか。しなやかな動きはまるで猫科の動きそのものだった。
「やるねぇ。葵ちゃん」
小泉が惚れ惚れとした、と言うような言いぐさで感嘆していた。
「切れると恐いのね」
俺はちょっとショックだった。
まるで水戸黄門の「一件落着」の台詞を聞いたごとく、拍手が鳴り終わるとギャラリー達はそれぞれの教室へとまばらに帰っていった。
無様な片桐は地面に突っ伏したまんま。
情けない取り巻き連中はおきまりの捨てぜりふを叫んでいたが、誰もそんなアホ臭い台詞なんて聞いてはいない。
片足を少し捻ったらしい葵は、片方の足をトントンと地面に打ち付けるような真似をしていた。俺を見つけると少しだけ照れた顔を見せて、軽く足を引きずりながらやってきた。
「へへ」
「へへ、じゃねーだろ。足、どうした」
「ちょっと失敗した」
赤く腫れた左の頬が紫色に変色しつつあった。切れた唇から流れた血がかさついた唇に沿ってまるで人を食った夜叉みたいに見える。実際、葵は片桐のパンチを食らった瞬間目の色が変わったのを俺は見逃さなかった。
葵の顎へ右手を伸ばし、親指でその血を拭った。
「いてっ」
「人、食った見たいな顔になってるぞ」
「ん」
「でさ、お前、いつもあんなのやってたのか」
「あんなの?」
「あの蹴りは今日初めてやって見せた訳じゃねぇだろ?」
「ああ。今日はイッチが見ているから頑張っちゃった。それに今日さぁ、クスリ忘れちゃって、のんでくるの忘れたんだよね。」
「クスリ?」
「そう、俺の暴走を止めるクスリ」
ケロリとした顔で葵は言う。
「どんなクスリだよ、それ」
「情緒不安定を納めるクスリ。今日、のんでいないんだ」
「そんなん、飲んでいるんか?のまないと、こんなんなるのかよ」
「朝から、苛々しててさ~。丁度良かったよ」
ヘラヘラと笑いながら葵がそう言う。
やっぱり俺は、金髪葵が分からない。
謎の多い男だと改めてそう確信した。それじゃあきっと、あん時ものんでいなかったんじゃねーの?って思った。
「アン時……」
そう言い、自分で自分の口を塞いだ。
「飲むの、忘れていた」
へにゃっとした顔をして葵は笑って見せた。
正しく、アレも暴走だったのかよ。あんな暴走だったら今の片桐みたく喧嘩にしてくれたら、俺勝てたかもしんねぇのに。
いや、それもどうだか……、怪しいが。
俺の腕を引っ張るヤツがいるから振り向くと小泉が含み笑いを隠そうともせず、にやけた顔して俺を見ている。
「あんだよ」
「アン時って、なにさ」
小泉はちょっと感が鋭い。インテリ臭いってのもここらへんが臭うからだ。こいつがいるのをすっかり俺は忘れていた。
「なんでもねーよ」
「俺の話より、そっちが聞きたいな。市乃」
正直、ブルった。どの面下げてあの話をこいつにすればいいんだ。死んでも話さねーよって。
その日の夜、葵が週間ジャンプとアイスクリームの入ったコンビニのビニール袋を下げ、俺のアパートのドアをノックしてきた。
ドアを開け、俺はすかさず聞いた。
「クスリ、のんで来ただろうな」
END
2002/9/20
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