約束 act.2 [ 胸の高鳴り ]

 「なに、見てんだよ」
 見られていたという羞恥が沸き上がる。それと同時に「なんで見ているんだよ」という腹ただしさも沸き上がる。
 何も言わず、視線だけを悠衣に向けて男は背を壁に付けたまましゃがみ込んだ。少し猫背気味に前屈みにしゃがみ込み、口元に笑いを浮かべている。カラカラと音を立てて氷を頬張る仕草が尚のこと人をバカにした様に映り、思わず悠衣はその男のいる場所まで駆け上がった。
 バシっと紙コップを叩き、まだ十分に残っていた透明の液体が床に飛び散った。
 「なに笑ってんだよ、見てんじゃね~よ」
 普段ならこんなことしない。少なくとも友人に対してこんな風に自分の感情を思い切り投げつけるような事はしたことがなかった。目の前にいる男が知り合いでは無かったからといっても、普段の悠衣ならここまで怒りを誰かにぶつけた事などなかった筈だった。

 自分のしたことに、自分が一番驚いている。
 悠衣は自分の指先が震えている事に気が付いた。叩き払った紙コップが痛かったからではない事も分かっていた。そのままその場所に佇んだまま、動けなかった。その男を見ることすら出来ずにいた。
 飛び散ったジュースの欠片に視線を這わせる男の気配を、視界の端で感じていた。
 「ごめ……」
 思わず、だった。考えるより先に行動していた。いくら気にくわないヤツだからといってこんな風にするつもりじゃなかった。
 飛び散った液体の滴が自分の頬にまで飛んでいる
 不本意ながら、謝ってしまおうと口を開きかけたと同時に目の前に座り込んでいる男が始めて声を出した。
 「あんた、男とデキルんだ」
 押さえつけようとしていた怒りがまた燃える。なんで、こんな事を言うんだ、こいつ。
 低いけれど、はっきりとした口調で、悠衣にそういう目の前の男は、黒い瞳を真っ直ぐに返してくる。
 「お前に関係ないだろ。オレに興味があんのかよ。さっきからオレのこと見ていたの知ってんだぞ」
 震えていた指先をぎゅっと握りしめた。今震えているのはさっきとは違う理由だ。押さえようもないほど動揺している、「男とデキルんだ」その言葉の意味は知っている。オレはそうじゃない。
 だけど、そんな事を見ず知らずのこんなヤツに話したくもない。
 こいつ、嫌いだ。
 「興味、ある。あんた、綺麗な顔しているから」
 目を覆うほど長くなっている前髪を軽く振り払うようにして、そいつは立ち上がった。背丈はそう悠衣と変わらない。思ったほど体格がいいわけではないのに、持っている雰囲気のせいだろうか、こっちが気後れしそうになる。そのことが又、腹立だしくもあった。
 いつのまにか、悠衣の目の前数センチの所まで近づいて来た男は、正面から悠衣を見つめていた。まるで凍て付く様な視線で迫ってくるから、悠衣は思わず一歩後ずさる。
 不意に、くちびるが触れた。
 「なっ……」
 力任せに突き飛ばした。女じゃあるまいしたかがキスされたくらいでどうこう言う気はなかったが、あまりに前触れも無く、しかもこいつが嫌いだった。
 「ふざけんな、てめえ」
 「ほら、素質あんじゃん。イヤじゃなかったろ」
 突き飛ばされても顔色一つ変えず、壁に突き当たった背をそのまま凭れかけ悠衣を誘うような仕草をしてみせる。
 「オレのものになってみれば?」
 下から掬い上げる様な視線で、見つめてくる。流れる黒髪から見え隠れする赤いくちびるが悠衣の感情を刺激した。見たくないのに、引き寄せられる、一点だけに。
 「何分け分かんない事くっちゃべってんだよ。バカじゃねーの。近づくな、オレはお前なんか嫌いだ。」
 また、一歩近づこうとしてくるそいつを両手で制して、悠衣はもう一歩後ずさりした。
 早く、ここから立ち去りたい。なんだよ、こいつ……。
 「あなた達、何やっているの。さっきから五月蠅いわよ、ここを何処だと……」
 大声で怒鳴り散らしている声が、図書室まで届いていたのだろう。ドアを開け、こちらに歩み寄ろうとしている女性を認めるや否や、悠衣は走り出した。
 冗談じゃねえ!
 
 はあはあ息を切らして、地下鉄の乗り場まで一目散に走りきった。定期を出そうと制服のポケットに手を突っ込んだ時、隣でやはり息を切らしている黒い髪を見つけ、心臓が跳ねた。
 「おまえ、足、早ぇ~な……」
 「なんのつもりだよ、ついてくんなよ」
 「オレだけ掴まればいいってのかよ、おい、待てよ」
 これ以上、こいつに振り回されたく無かった。さっさと改札を通り抜けようと踵を返した瞬間、腕を掴まれ、前につんのめりそうになる。
 「うっさい、離せ」
 「切符、買うのどおやんのか教えてくれよ」
 「え?」
 「オレ、地下鉄に乗った事ねえんだ」
 まじまじと、そいつを見つめた。
 「お前、人間か?」
 今時、地下鉄に乗ったことが無いやつなんているんだろうか?オレの目の前に立っているこいつが、薄くぼやけて見えた。
 「オレが、なんに見える?」
 笑いを噛みしめるように、悠衣を見つめるそいつは確かに人間だが、先ほどの威圧感は幾分薄れ、笑った顔は、実に新鮮だった。
 「地下鉄に乗ったことがないんだ。乃木坂まで行くにはどうしたらいいんだ」
 乃木坂は、悠衣の父親が住んでいる街だった。ここから乃木坂までの乗り換えは何通りかある。親切に教えてやる気にはならなかった。「160円分」そうぶっきらぼうに言うと、掴まれた腕を乱暴にもぎ取り、自販機を指さした。
 「じゃあな、悠衣」
 後ろから声をかけるそいつの声に、驚いて振り向く。ニヤリと笑いを口元に張り付かせていたその表情を見て、やっぱりコイツは嫌いだと心の中でグーのパンチを食らわせてやった。
 オレの名前を知っていた。
 ドキドキが繰り返される。
 きっと、図書館で前田がオレのことを呼んでいたのを聞きでもしたのだろう。そんなことでドキドキしているんじゃなかった。あいつ、オレの事「悠衣」って漢字で発音した。
 その事がやけに悠衣の心臓を高鳴らせていた。





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